湯上之秘事

 風呂を出て、寝間着を羽織る。真夜中少し前、志葉丈瑠は縁側から月を見上げた。風呂はいつも一番風呂だった。桧の浴槽に乳白色の湯で満たされた風呂だった。彼が出れば家臣が湯を使い、彦馬が使い、最後には黒子たちが入る。黒子たちの間にも順番が決まっている。
 最後の黒子たちの入るときには湯は冷めている。多少の湯を足して暖めても、表面には何人もの人間の垢が浮いている。
 彼が入る風呂は垢など浮いていなかった。浴槽にはぬるつく感じもない。黒子たちが毎日きれいに磨きあげているからだということを、丈瑠は知っている。
 本来は彼もまた、垢まみれの風呂に入る身分なのだ――丈瑠は表情を変えずに縁側を進んだ。足下が鳴る。障子を開ける。部屋は質素というより、何もないというほうが正しかった。黒子の用意した布団と枕、書き物をするための机に、積まれた何冊かの書物――自室の全てだった。
 枕元におかれた照明が部屋の中を薄暗く照らしている。当主として――酒もタバコも嗜むことはない。食事は常に家臣と同じものを食する。当主として、家臣に対する最低限の責任だと考えている。
「最低限の責任――か」
 思えば可笑しかった。志葉丈瑠と言われる彼と、家臣の間にはそんなものは存在しないし、そんなことを仲間に求めたこともない。家臣は――実のところ黒子でしかない彼――についてきているわけではない。彼が志葉十八代目当主であるから、殿様であるからついてきているからに過ぎない。
 本当の彼がそのようなものではない、等ということを知ったら、これまで仕えてきた彼らはどういう反応を示すだろう。
 ずっと昔にこのことには決別をつけてきたはずだった。彼は黒子であり、影武者であり、斬られればそれで終わりの存在だった。殿と呼ぶ彦馬の言葉を受け止め、隙間の向こうからやってくる外道の暴虐に刀を向けるだけの存在だった。
「丈瑠?」
 不意に声がして、振り向いた。障子の向こうに浮かび上がった影が見える。照明本体に巻かれた和紙と障子の和紙で、影が柔らかな線を描いているように見えた。
「なんだ?」
 思考を中断されて、眉を潜めた。声、影は茉子――白石茉子だった。
「ちょっと前を通ったら気配がしたから」
 やや間延びした声がした。前を通ったから? 彼の部屋は独立している。廊下の奥でこの廊下を通りかかるものなどいなかった。
「そうか。」
 彼もまた間延びした声を返した。
「まだ起きてるの?」
「ああ」
「そう」
「――何か用か?」
 声は完全にうわずった。その影の頭がこくりと動いた。
「入ってもいい?」
「入れ」とだけ、彼はいった。桧のこすれて滑る音がして、寝間着姿の白石茉子の姿が見えた。彼の部屋には座布団は一つしかない。彼は胡座をかいていた。彼女は畳の上に腰掛けた。
「どうしたんだ――」
 と、口にしたとき、鼻の中にほのかな匂いが感じられた。白粉の匂いだった。化粧をしている、その事実に顔をあげて、その顔を見た。白い顔は磨きあげられた陶器のように見えた。
「あの、私まどろっこしい言い方は苦手だから単刀直入にきくけど、丈瑠はいったい何を隠しているの?」
 茉子の顔を見た。伺うような表情――その目には独特の力がある。常にこの女は自分の隠していることを探っている。そうは解っていたが、唐突に問われて嫌悪感を隠すことだけで精一杯だった。
「何も――隠していることなどない」
「ウソ」
 揺らめく照明に顔の輪郭が浮かび上がって、長い影を引いている。
「なんだ、突然」
 思わず嫌悪感を禁じ得ない。実際、彼女はそんな顔を向けられることを予想していたのだろう。表情を崩さず、澄ましていさえする。通りかかったら気配がした、などとウソをついたことを丈瑠が気づいていることにも気づいているのだろう。
「流之介や、千明やことはがいると、丈瑠は本当のことを絶対いわない。だけど、私知ってるんだよ。何かをかくして私たちに接しているっていうコト」
 何を知っているというのか。彼はその目から目を放せなかった。ウソをついているからこそ、突き通さねばならなければならないほど、彼はその表情をまっすぐ見据えるしかなかった。
「教えて。」
「――無礼だ」他に言うべき言葉がなくて、丈瑠は目をそらした。
「無礼?」
「そうだ。茉子、おまえは俺のいうことだけ――」
「珍しい。そんなこというなんて」
「ほっといてくれ」
「丈瑠のことなんて何も解らないわよ。だけど、私が――ほっとけないたちだってことぐらい解るでしょう」
 声が後になるに従って急に小さくなった。彼女は目を背けている。彼も背けていた。お互いの目の前には見えないひどく醜いものを見ようとしているのに、目を背けてしまっていた。口ではみたい、そう思っているのに、見ることが出来ない。見せることが出来ない。
「――――特に丈瑠のことはね」
 ぼそっと呟く声に顔をあげると、揺らめく影に浮かび上がる茉子の表情がある。その唇が少し光沢をもって震える。端正のとれた顔がわっと崩れた。
 だいじょうぶか、そう手を差し伸べようとしたとき、茉子がぎゅっとすがりついてきた。それはクセだった。そう、流之介にもことはにも、茉子は抱きつくクセがある。思い切り力を込めて、芯の奥まで震えて、その心の奥まで慟哭するような――
「やめろ――」
 絞り出すように言うと、茉子は離れた。両肩にその手がおかれていた。細い腕だった。胴も細かった。みると、その目の前に唇が見えた。白粉の匂いもした。ぱっと舞い散っているように見えるのはきのせいだろうか。湯上がりで全体的に火照っていて、発汗しているのは、彼女も彼も同じだったが、どこか彼女は冷気を含んでいて、それが――
「やめない」
 唇が迫ってきた。彼は白石茉子と口づけをした。その熱い感触に頭がくらっとした。拒絶しようと思った。俺はお前が考えているような男じゃない――俺は地位もなければ家系もない。ただの黒子でしかない。
 丈瑠は茉子を引き剥がした。
「なんで――」
 涙を浮かべて切なさに満ちた目線を向けられて、顔を背けた。こやつはただの家臣でしかない――軋んだ感情が音をたてている。どうしていいか解らない。二の腕を掴んで、二人の間に距離を作っている。
「こっちの台詞だ――」
「解ったでしょう」
「解らない」
 その身体は強ばっている。
「この解らず屋」
「なんとでもいえ、だが……」
 腕を離した。
「家来とは、交わらない? 見上げた節操感じゃない」
 声には涙が混ざっている。
「そんなことではない」
 血筋のはっきりしている茉子とただの黒子である自分――そこに区切られている二人の差にただいらだちが募った。
「なに――」
「黙れ」
「いや!」
 茉子の寝間着の胸元が解けてみえていた。すがりついてくる茉子の目があった。
「知ってるんだから。丈瑠がそうやって私を突き放すのは、私たちについているウソが原因だってこと」
「だったなんだというんだ?」
「違うから」
 肩に手がおかれた。侍の手だった。もともときれいなはずがいつの間にか荒れて汚れてしまったように見える手だった。卑しい自分が手にすることの出来ない手だ。
「私は、あなたのウソがどうであろうと、そんなこと気にしない。そんなことと、私が丈瑠のことを好きだって気持ちは関係ない」
 丈瑠は言葉を返せなかった。唇には茉子の唇の感触が残っている。では、茉子が秘密を知ったらどうなのか、だが、茉子はそんなこと関係ないという。そんなことは偽善だ――口をついてでようとした言葉は、結局発せられることはなかった。
「丈瑠……」
「呼ばないでくれ。その名前で」
 それだけ言った。肩に触れたままの手にぎゅっと力が込められた。顔を向けると、茉子が頷いた。寝間着がほどけると、茉子の肩が緩やかなラインを描いていた。
「――じゃあなんて、呼べばいいの?」
「名前などなくていい」
 茉子が顔を傾けた。ふっと息をついて強情な彼に呆れたようだった。そのまま二人は布団の上に横になってしまった。どっちがどうのといったわけではなかった。ただ、熱情だけがあって、それがふれあうと強烈に引きあった。顔を近づけて、口づけをして、丈瑠の胸元をゆっくり広げていく茉子がいる。和服に身を包んでいても、二人とも下着は身につけていた。茉子のブラジャーは簡素なデザインだった。胸の谷間にあるリボンと、そこから広がるレースだけが女性らしさを見せている。それは、茉子自身の身体の描く色の前にはひどく質素だった。
「じゃあ、名無しのごんべいさんってわけ」
「そんなところだ」
 茉子は下着に手を入れると、逸物を握ってきた。みるみる間に堅くなっていく。彼は茉子を抱くと口づけをした。その唇にすがりついてきた。
「私、ことはや他の人にするようにこうやっているわけじゃ――」
「解ってる」
「解ってない」
 結局、解りあえるコトなんてない。だけど、丈瑠は困惑した。茉子の唇だけが見えた。それが笑っているように見えた。
「強情。ね、さっきみたいにしないで」
「さっきみたいに?」
「キツい言葉で――」
「すまなかった」
 また、笑っていた。
「私もいやな女よね」
「そんなことは――」
「そういうことでいいの。ねえ、秘密のことなんてどうでもいいから――」
 抱いて――茉子の身体を抱きしめながら、丈瑠は顔を近づけていった。その背中はすべすべとした手触りだった。侍として宿命づけられた身体――
 茉子の手が滑っている。逸物を手にしながらその内側の玉袋との間にまで指が伸びている。彼は顔がすぐそばにある。茉子が上に乗っていて、彼は掛け布団を背にしている。鼓動が高鳴っていたし、茉子の鼓動も感じられた。その唇から笑みがきえ、また口づけをして、丈瑠は舌を差し入れて同じように舌が入り込んできて混ざり合っていく。
「待て」
「ん?」眉を潜める彼女――
「ゴムが――ない」
 茉子が頷く。
「中に出さなければいいよ」
 茉子に誘われた。足を広げた彼女――他人の中に入り込もうとすることは猛烈な恐怖だった。隙間から現れる外道とは違う種類の恐怖だった。彼は今まで一人で戦ってきた。一人が好きだという以上に、彼は誰かとこうして混ざり合うことに、困惑を覚えていた。だが、今はもう引き戻せず――それ以上に、目の前にいる女を激しく求めていた。
「あっ……」
 茉子の声――
「あぁんっ…だ、だめだよね、声あげたら気づかれちゃう」
「…大丈夫か……」
「だって…ん…おっきい…んだもの……」
 ぐじゅりとした感触がして、茉子の中に入り込んだ。丈瑠は腰を動かした。少し入りにくかったが、位置をうごかしたらずぼっと挿入される形になった。声がした。暖かかった。
「あっ……」
 その姿に侍として戦う茉子の姿をみた。シンケンピンクとして刀を振るう彼女――今まで一人で肩にシンケンマルを担いでいた丈瑠が肩を預けた仲間――
「あぁ…っ……ああぁっ」
 彼の上で揺れる茉子は、声を出さぬように心がけながら、時折漏らす快楽に顔を緩ませながら、笑っているようにさえ見えた。
「あぁっ…」
 揺れる篝火のような照明で、天井に二人の姿がうつっている。影だった。猛烈な影だった。二人は抱き合っていた。彼は腰を動かした。ただ、侍ではない彼が本物の侍と交わっている。それはひどく、扇動的であり、背徳の感情が漏れでて、彼は突き上げた。
「あぁっ――!!」
 愛情をもって茉子を抱きたかったが、丈瑠にはこの女を愛する方法が――そんなこともうどうでもいいのだという考え方に達した。顔を近づけ首を傾けて、くすりとほほえむ。
「ねぇ――」茉子が抱きついてきた。胸板にすがりつきねがら、その心臓の音をきこうとでもするように、耳をあてている。腰を揺らしている。彼は彼女をみた。横顔が見える。影が揺れている。
 彼は鼓動が高まり、逸物の中に弛緩する感覚を感じて、ゆっくりとその身体の中から引き抜こうとしたが、汗に塗れた顔が胸板の上で横に振れた。
「このまま――一緒になりたい」
 目にたまった涙、自分は理性的に振る舞わねばそう思った。
「しかし――」
「しかしなんていっちゃ厭……」
 彼女は言うが、戦いに――戦い? 彼は心の中で悪態をついた。そうはできないのは、白石茉子に対する愛情からだ。いや、愛情なんてあったのか――そもそも――
「もっと愛して――」
 その声は今まで丈瑠がきいたことのない茉子だった。彼は身体に締め付けを感じて、二人のいる空間がどこまでも広く感じられた。それは全て真実で現実だった。
「あぁん…んんっ……」
 どろりと彼の精液が流れ出たとき、耳が遠くなった。茉子に引っかかれて彼女が達したことが知れた。何もかもが白んじた感触のする世界の中で、二人の瞳はごく近くになった。

「しかし、殿――」流之介が言った。「茉子の料理に毒味も薬もなしで挑むなど、正気の沙汰とも」
「大丈夫だ」
 奥座敷、丈瑠――殿様は胡座をかいていた。今朝の朝食は茉子の当番だった。
「姐さんも料理本とか買ってるってきいたけど、でも」
「茉子ちゃんなら心配やない。うち、茉子ちゃんの料理大好きや」
「あのな、ことは?」
 千明とことはの論点のずれた会話を聞きながら、丈瑠は頬を緩ませた。実のところ、今朝の朝食の仕込みをしたのは丈瑠自身だ。午前三時の台所に、茉子とともに立ち、料理の手ほどきの一通りを教えた。
「はい、みんな」
 だから、よっぽどのことがない限り、大丈夫だ、と彼は思っていた。そうこうしているうちに、茉子が黒子を従えて、奥座敷に現れた。そこにいる全員が固唾を呑んで見守る中、黒子が手際よく配膳していく。
「おおっ」声をあげたのは、彦馬だった。
「すごい、茉子ちゃん!」
 白米、味噌汁、お新香、焼き魚、煮物――今までの焦げて真っ黒や、煮くずれの見えない完璧な朝食だった。
「さあ、みんなさっさと食べちゃって」
「茉子、腕をあげたな」
 丈瑠は言った。彼女は彼をみた。みんな朝食に釘付けになっている。彼女にっこりと笑ってウインクをした。丈瑠は味噌汁を手にしながら、ゆっくり頷いた。
「あ――?」
 外見は完璧だった。彼自身、味噌の量は適正にして、味付けはこうすればいいということを細かく教えた――ハズだった。
「うへーなんだよ、これ!?」
 千明が声をあげた。そんなはずはない。焼き魚に――ぱりっときれいな外見が崩れると中から炭化した肉が――
「今日の朝ごはん、特別や!」
 ことはの声だ。丈瑠はおそるおそる顔を上げた。笑顔なのはことはだけで、他の全員が渋い顔をしていて、茉子はきょとんとしていた。
「どう、丈瑠?」
 一周してから彼に質問が向けられた。かろうじて作り笑いをすることしか彼にはできなかった。



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